松見拓也 写真展 | KASET
2015.3.14[土]--3.29[日] 13:00--21:00
*会期中の金・土・日のみオープン、月〜木 休廊

at : hinemos -tiny wall gallery-

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この度、hinemos -tiny wall gallery-にて、松見拓也による写真展を開催する運びとなりました。

いわゆる"撮影"と"プリント"を必要条件とする大文字の写真作品だけではなく、 写真に付随する構造や仕組みそのものへ介入するような展示を予定しています。

それらは、現代美術の文脈において未だ頻出する "複製技術"や"認識/知覚"といった諸問題への反応ではなく、 むしろもっと実感を伴った距離での"写真"とのやりとりを感じさせます。

今回はいくつかのシリーズを展示し、 少しずつズレながら共有されている発想と方法をたどる事で、 松見拓也の全体像へと無謀な肉薄を試みます。 是非この機会にお越しください。
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この小箱について、1 text : 野口卓海(美術批評家 / 詩人)

ここ数年の私は、現代美術作家がそれぞれに持つ"スタイル"にしか注目していない。制作の方法および環境、着想の在り処、展示・搬入で見せる些細なふるまい、あるいは美術以外のカルチャーとの距離感、趣味の選択とその姿勢、もっと言えば生活や暮らしでの様式や嗜好など、それら作家の人となり全般を非常にゆるくつなぎとめ、輪郭が曖昧ながらもある一定の一貫性を感じさせるものを、私は"スタイル"だと考えている。それは作品のそこかしこでも滲むように現出するはずであり、むしろ現出すべきですらある。作家の"実感"は鑑賞に耐えうる強度への裏づけとなり、無意識の"納得"を鑑賞者へ与えるのだから。コンセプトやステイトメントの"内容"自体よりも遥かに、言葉遣いやキーワードの選出・優先順位にこそ、私は興味がある。そういった私の個人的な視座は、大局的な現代美術の文脈では恐らく必要とされず、また保存されることのない部分に対する感傷の発露かもしれない。どこか片隅でそう理解しながら、目を離せずにいる。私にしか目撃不可能な、ごく至近距離からのみ発見しうる一点を常に探している。松見拓也へのテキストとは、まさにその実践であるだろう。だからこそ、個々の作品への形式的な接近だけではなく、より全体像へ肉薄するような言及を試みよう。

今回の"KASET"と名付けられた展覧会は、私が松見拓也へ依頼して開催する運びとなった。それは、現在形の彼をどうしても一度確認してみたかったからに他ならない。小規模であれ自身の個展を作り上げていく過程にこそ、先ほども触れたような"スタイル"の一端が如実に現れるのではないか、という思惑も多分にあった。そして期待していた通り、彼の試行錯誤・逡巡・紆余曲折を体感することに成功したと思う。例えば着想を膨らませる時、彼は非常に独特な方法によってスリリングな道筋を辿ろうとする。次々と刹那的な発想を連鎖させ、ほとんど連想ゲームのように唐突な飛躍を見せるのだ。それは、今回発表されたカセットテープに納められた作品にも表れているだろう。写真の束を用いながら順序や選択基準といった明確な"編集"を加えないことで、一枚一枚の写真が意図のない恣意的なリズムや関連性を"勝手に"生み出していく。明確な関係を持たない図 像の塊が、それ以上に脈絡のない"カセットテープのサイズ" へと封印されることで、逆説的に一枚一枚がひどく解放されている。そもそも、連想ゲームのような発想方法は鑑賞者を翻弄するかもしれないが、彼は追跡の阻止自体を目的としていない。むしろ、松見自身が最後まで制作を楽しむ為の余白、"あそび"の部分を獲得する為に、外部へ外部へ、他者へ他者へと作品を追いやっていくのだ。"カセットテープのサイズ"のような唐突なルールは、まさにその現出である。勿論、FAX による複製もそういった余白を獲得するための装置(外部/他者)として用いられている。彼にとっては印刷会社やラボへの発注、ひいてはカメラ自体がその装置であるのだろう。

では、なぜそういった装置の介入を松見拓也は求める(あるいは許す)のだろうか。「制作の構想を練る段 階で、トライ&エラーまで含め全てが頭の中で完結してしまう事があり、そうなると手を動かす気にす らならない。」今回の企画に際し行った幾度かのヒアリングの中でも、特に印象的な自己言及だった。つまり、彼は自分自身が飽きないために外部/他者を介入させているのだ。それらも場合によっては即時的に解体し、組み替え、ずらし、更新と放棄を繰り返す。そういった外部/他者との応答、あるいは反射のような関係性は、contact Gonzo の活動を通して獲得された部分もあるだろう。少なくとも、倦怠が立ち入る隙さえない飛躍や速度を知る手がかりの一つであるに違いない。

この企画を思いついた当初、ひとつの課題のように、あるいは依頼のように、私は額装した写真作品を彼に発表してもらうつもりでいた。額装された彼の作品を見たことがなく、またどのような対応を見せるのか興味もあった。大量の写真や額からの現実的な選択は、彼にとって新鮮な息苦しさであるだろうという、少し意地の悪い思惑もあったかもしれない。しかし、最終的に私たちはそのルールを放棄することにした。なぜならば現在の彼にとって写真とは、時間や場所の制約をある程度受け付けずに自立しうるような代物ではなくて、刻一刻と変化する総体なのだから。ぺらぺらの一枚から、それらが積み重なった塊まで、最も" 使役" しやすい状態をその都度選び取ること。そう、彼は写真をどのように" 使う" かばかり考えている。倦怠と窒息から逃れるためには、新しい" 遊び方" を発見し続けるしかないのだ。

大量の写真に日々さらされ続けている私たちもまた、実は慢性的な不感症を知らない間に患っている。松見拓也が次々に発見する写真を使役した" 新しい遊び" は、そのことをまざまざと気付かせてくれる。それは、文脈への理解を必要とする現代美術(ハイカルチャー)のゲーム性とは、全く異なった作用を鑑賞者に及ぼすだろう。もっとシンプルでよりストレートなやり口で、写真の面白さを再認識させてくれる。トランプが無数のゲームとルールを生み出すように、これからも彼は写真を手札として遊び続けるに違いない。その手札を仕舞うための不定形で無数の箱(cassette)こそ、彼が作品や展覧会に求める機能なのである。