ルアービルダー・和田雄介 作品展
2015.1.10 [土] -- 12[月] / 1.16[金] -- 18[日]
[13日火曜 --15日木曜 休廊]

at : hinemos -tiny wall gallery-
Open | 13:00--21:00

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この度、hinemos -tiny wall gallery-では2015年最初の企画として、 大阪在住のルアービルダー・和田雄介氏による作品展を開催する運びとなりました。
和田氏が手作業にて生み出すルアーたちは、釣り道具としての完成度は勿論のこと、 ひとつの工芸品としても非常に高い次元で意匠や技巧が施されています。
釣りをされない方々にも充分鑑賞をお楽しみいただけるような内容となりますので、 是非この機会にお越しくだされば幸いです。
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遊の極地    text : 野口卓海(美術批評家 / 詩人)

私もまた、釣りをする人間だ。しかし、そうであっても「釣り」とはなにか漠然と考え込んでしまうところがある。ひとりきりの釣り場で、あるいは釣り人たちと会話している最中、不意に呆然とするような不思議さが訪れる。つまりはまだ私と釣りの間に、どこか辿りきれない部分があるのだろう。だからこそ本テキストは、和田雄介氏の展覧会を契機としつつも、まずは少し大きな観点から「釣り」という行為全体への接近を試みたい。

自然とのやり取りを楽しみながら、自然を消費しなければ維持できないという不安定な関係。あるいはまた、理性的・科学的とも呼べる冷静な精神状態と、非常にシンプルで原初的な激しい情動の同居。目的(釣果)と過程に対する価値観が、各釣り人の趣味性によって複雑に入れ替わりながら無数に存在する点(※1)。このように容易く発見できる幾つもの背反や矛盾は、「釣り」のもつ不思議さの遠因となるだろう。見つめれば見つめる程、「釣り」とは"不可解"な行為である。

そういった「釣り」を取り巻く不思議な状況を指して、開高健は「釣りとは絶対矛盾的自己同一である」と西田幾多郎の思想を引用している。確かに上に指摘したような背反や矛盾は、それ自体が「釣り」を「釣り」たらしめている骨子でもあるだろう。そもそも、こと「趣味」と呼ばれる行為全般における"不可解さ"、あるいは非合理的な一面は、そのまま魅力へと密接に繋がっているのだ。私たちを取り巻く社会や環境が画一的で巨大な指標を打ち立てようとすればするほど、「趣味」や「遊び」の持つ"不可解さ"が際立っていく。そして、しばしば錯覚してしまう。私たち人間が"不可解さ"の塊であるにも関わらず、あたかもそれが悪かのように。

釣りをしない人々から時折発せられる、釣り人への辛辣な質問や疑問の多くが示す通り、彼らはその"不可解さ"にひどく敏感だ(※2)。まして「食べない魚」を「疑似餌で釣る」というルアーフィッシングは、その中でも特に突出した摩擦係数を生じさせるだろう。しかし、ここまで指摘した通り"不可解さ"こそが趣味や遊びにおける自己同一性を生み出しているのだとしたら、その摩擦係数の高さはルアーフィッシングという分野を包括する結束強度がより強固であることを証明している。ルアーフィッシングを愛好する釣り人たちが(時に自縛するように)打ち立てる厳格な"ルール"(※3)も、己の輪郭を明確にするために他ならない。"ルール"が厳格さや鮮烈さを帯びれば帯びる程、"ゲーム"はより危険でより先鋭化するのだから。また同時に"ゲーム"の方からも更新と代謝の為に新しい"ルール"を希求するだろう。そして、"ルール"とは意義や意味を一切持たない、それこそ非合理的で"不可解"な代物なのだ。

だからこそ、ルアーは餌から遠ざかっていくのだろう。ルアーそのものの絶対矛盾的自己同一とは、餌との乖離あるいは決別である。和田雄介氏の作品は、その点において確かに強い自己同一性を持っている。漁具としては"不可解"なほど作り込まれている「目」は、彼特有の非合理的な"ルール"の強い発露であり、意匠・技巧の見せ場と言えるだろう。そして、その「目」への偏執的な追求は、2006年頃の過去作品においても確認できる。では、なぜそれほど彼は「目」に制作の重心を置いたのだろうか。彼のルアーにおける造形上の主題と思しき「目」は、私たちに何を示唆するだろうか。

和田雄介氏が発表している作品の多くは、ルアーという範疇の中でも特に「トップウォータープラグ」と呼ばれるより細分化されたジャンルに属している。「トップウォータープラグ」とは、端的に言えば「水面での動作による魚の捕獲」を目的としたルアー群である。つまり、彼の作品の多くも水面での使用を前提としているのだ。だからこそ、釣り人の「鑑賞」にも耐え得る造形上の強度を、彼は「目」へと求めたのだろう。彼の作品におけるもう一つの造形上の主題と推測できる「塗装」の意匠・技巧からも、その強度がはっきりと感じられる。「釣り人が常に鑑賞している」というトップウォータープラグ特有の緊張感は、「物」としての高い完成度を自律的に生み出しているのかもしれない。そして、釣り人である彼自身が作品へと注ぐ眼差しもまた、その「鑑賞」を行っているのである(※4)。現代美術や工芸のみに限らず、そのジャンルやシーン(※5)に深く根ざし、心奪われた者にしか作り得ない作品とは確かに存在する。彼のルアーも間違いなくその一つなのだ。

さて、上に僅かに触れたトップウォータープラグ自体は、ルアー文化の最初期(1900年前後)から存在する、大変歴史的な分類の一つと言えるだろう。そして、非常に興味深いことに現代の日本においては、「トップウォータープラグ」のみを限定的に使用するシーン(便宜上、その属性名を以下「トップウォーター」と表記する)も存在する。本文中でも指摘した通り、より厳格で鮮烈な"ルール"はそれに帰属する参加者(愛好家)達の輪郭を規定し続けるだろう。私は、この「トップウォーター」と呼ばれるシーンの形成にも、他の多くの輸入文化が辿った欲望と病を発見し、非常に強い興味を覚えた。以前のテキストでも触れたが、その欲望と病とはつまり、海外の文化/文脈を正当に継承したいという欲望と、それに起因する真正性の詐称である。勿論そこに悪意は一切ない。むしろ、大量消費を第一義とする大きなマーケットとその潮流に対する抵抗やアンチテーゼでもあり、あるいは抑止力として機能する事もあるだろう。しかし、その「真正性」が常に”かりそめ”かつ"借り物"で、時には"偽物"である事を理解していないとすると、それは文化や文脈としてとても脆弱になりかねない。その欲望と病が持つ脆さ・危うさは、当然ながら他の輸入文化である現代美術やストリートカルチャー、あるいはファッションやデザインにも潜んでいる。輸入文化の正当な後継者ではない私たちは、常に"ルール"を更新し続けなければならない。非合理的で"不可解"な"ルール"こそが、"正当さ"や"本物"といった概念から離れた地平で自立できるのだから。


  釣りは芸術である。
  芸術とは自然にそむきつつ自然に還る困難を実践することである。
  そういう哲学を持っている釣師は --小生もその一人であるが--
  かならずや、擬餌鈎を専攻にしなければならない。 (開高健「開口閉口」より)



ルアーフィッシングだけに限らず、私は釣りを"遊び"の極地だと考えている。現代美術もまた、人間にとって必要不可欠な"遊び"の一つだ。ホイジンガが指摘した通り、私たちは全員が"ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)"に他ならない。「遊びは文化よりも古い」その言葉が示す通り、"遊び"がなければ私たちは存在しえないのだ。釣りや現代美術といった幾つもの"遊び"は、私たちの非合理的で"不可解"な本質を前向きに実感させ、また慰めもするだろう。狩猟本能を刺激しながら、それでいて漁としての効率だけを目的とせず、道具や方法の歴史が知的好奇心も満たしてくれる。自然と私たちを結びつける一つの術であり、また知恵であり、視座でもあるこの豊かな行為の本質は、これからも"不可解"であり続けるだろう。理解不可能な外部に触れる事で、私たちは初めて内部を認識できるのだ。そして、そんな事を想いもせずに、釣り人は水辺へと立つ。水という隔たりを挟んだ水中への憧憬。糸を通した、世界とのやり取り。そう、奥深い人間の営みはすべて、底の方で繋がっている。














※1:「魚を釣ること」が必ずしも第一義的な目的とはなりえない、ということ。














※2:帰属意識や趣味がほんの僅かに異なるだけで、釣り人同士でさえ相互に理解することは困難かもしれない。




※3:例えば、「特定のルアーしか使用しない」「ラインを極力細くする、あるいは太くする」「夜釣りは行わない」「産卵期の魚を狙わない」といったような事柄。






















※4:当然の事ながら、制作者は第一の鑑賞者である。そして、その「制作」と「鑑賞」もまた、絶対矛盾的自己同一の一つなのだ。鑑賞と制作の行き来によって生まれる、発見・ためらい・逡巡・転換など幾重ものやり取りこそが作品の強度へと繋がっている。

※5:この数年注目している「シーン」という語の意味や定義については、いつか明確にしなければならないと考えている。本テキストでは、「局所的で流動的な価値観・評価軸を不文律で共有している、非常にゆるやかに弱く繋がった共同体」としておく。